ピピピピピ、と電子音がなって目が覚めた。夕方までは起きてたのにいつの間にか寝てしまったみたいで、外はもう日が落ちて真っ暗だ。 鳴ったのはテーブルの上の携帯電話だった。 上田鎮(まもる)。 そこに表示されていたその名前は、わたしの知っている営業部課長のものだった。電話にでるわけにもいかず、携帯をそっとテーブルの上にもどして電子音が切れるのを待つ事にした。 この携帯は橘さんの忘れ物だから。 タチバナアツシは携帯を忘れていった。 なんて厄介な、とわたしは思った。困るのはわたしじゃなくて橘さんなわけだけど、やっぱり携帯電話は今のご時世必要不可欠なものだから(少なくともわたしにとってはそうだから)どうしても気になってしまう。橘さんは営業だから業務に支障とか出るかもしれない。 第一、返すタイミングにしても、土曜日(つまり今日)か日曜日に会うか、月曜日に会社の人目のつかない場所で返すか考えてしまう。第一、月曜日までわたしが持っていていいものだろうか。 今朝練馬駅まで橘さんを送って、わたしは外出する事なく丸一日アパートの中で過ごした。歩きながら橘さんは携帯を忘れた事に気がついたけどもう取りに戻る時間はなかった。それで、わたしの携帯番号を渡しておいた。 今朝橘さんはキスしてくれた。 起きて、って言って橘さんを揺すって顔を近づけたら、仰向けのままでわたしの首に手を回して。 嫌いだったらキス、出来ないよね。 わたしはそう。 終わった後、もうこっちの事なんか見向きもしないで急に冷たくなる男を知ってるから余計そう思うのかな。 眠る前に腕枕してくれた事。 目が覚めた後も変わらない態度で、キスを交わしてくれた事。 それが嬉しかった。 橘さんに一晩で惚れちゃったとか、そういうんじゃないけどやっぱり誰かに大切にされるって嬉しいから。 わたしの携帯電話はそれから一時間後に鳴った。市外局番047で始まるナンバーを見て、一目で橘さんの自宅からだって思った。 『もしもし。夜分すみません、橘です。』 あ、はい。こんばんは。お疲れ様です。 『昨日はお世話になりました。』 いえ、あの、……はい。 『明日の予定はどうなってますか?』 明日は、五時半まで学校に……あ、わたしパソコン教室に通ってて。毎週日曜なんです。 『どうやって帰りますか?』 は? 『大江戸線使ったりしますか?』 あ、いえ、定期券があるので池袋経由で西武池袋線使って帰りますけど。 僕も明日は池袋にいる予定なので、じゃあ池袋で会いませんか、と橘さんが言ったからわたしは判りましたって答えた。 それは携帯を返す為の約束だった。 橘さんからの電話はそっけなくて、短かった。何かを期待していたわけじゃないけど、ふうんそんなもんなんだ、っていう冷めた気持ちになった。 メールにしても、電話にしても、短いと深読みしてしまう事がわたしはよくある。特にわたし自身が不安や期待を抱えている場合に、その短い返答そのものに深い意味がある気がしてしまうのだ。 本当は会いたくないけど携帯がないと困るから仕方がなくなのかなあ、とか。 やっぱり一回寝ちゃえば興味なんて無くなっちゃうものだよね、とか。 第三者からみたら馬鹿みたいな独りよがりの憶測なんだろうけど、当のわたしはそれで結構浮き沈みしちゃったりする。 折り畳みの携帯を閉じて、また開いて、閉じて。 何度開いてもそこには八月六日という表示があるだけだった。 八月五日。 八月五日に橘さんは来た。 昔、高校を出てすぐ付き合っていた人の誕生日でもある。ロスト・バージンも何年か前のこの日だった。何だか色々な意味がある日のように思えて仕方がない。今回にしたって、付き合ってもいない人と関係を結んだのは初めてだし、そういう事が出来る女なんだわたしは、ってはっきり判ったきっかけになった。 窓の外には、建築中の工事現場がある。もう夜十一時なのだが、工事現場には灯りがともされたままだ。 夕べわたしの目には度々この灯りが映った。灯りを見ると、夕べを回想してしまう。夕べ、一番最初に交わしたキスを思い出したら身体の芯を突かれるようなつんと酸っぱい気持ちになって、わたしはカーテンを閉めた。 明日橘さんに会う。 携帯を渡したらそれでもう用は無くなるわけだけれど、こうして一人で実を結ばない憶測を並べ立てて悶々としているより直接橘さんの様子を窺ったほうがいい。 橘さんはこれからもわたしが会社にいる限りきっと関わらなければならないと思う。フロアが一緒で顔をあわせるし、いわゆる『一夜の遊び』ごときのためにわたしだって会社を辞めたり部署移動したりはしたくない。 橘さんと今後どんな関係になるか、それは明日次第だって思った。明日考えよう。 今日はもう眠る事にして電気のリモコンを探したら、あの時床に置いたままになっていた。 「はあ? 何で? 何でそうなったの??」 代々木駅前のファーストフードショップで、恭子は素っ頓狂な声をあげた。 昼の一時過ぎ。店内はほぼ満席で、周囲の人がわたしたちを振り返ったのが視界に入った。 「だから、その、今言った通りよ。」 恭子の大声につい恥ずかしくなって、わたしは小声で答える。 恭子とは入社以来話が合って、男と女についてとかセックスについてとかいわゆる『ぶっちゃけ話』を度々交わしてきた。けれど、今回の出来事はそんな恭子にとっても驚くべき事態であるようだった。囓りかけのハンバーガーを握ったままで手を止めて、さっきの反応を示した。 「槙ちゃんは橘さんが好きなの?」 「え?」 恭子は小さい口を尖らせてシェイクを飲み込み、小さい顔に小さい指先をあてて首を傾げた。 「槙ちゃんが橘さんを好きならね、イイと思うんだ別に。特定の彼氏とかいないわけだしさ。」 橘さんを好きか、なんてはっきり言ってピンと来ない。十の年の差もそうだけど、先輩としてしか見た事はなかったし、何より自分が相手にされるとは端から思った事がないから。 だから、恭子に橘さんが好きかどうか聞かれた事すら正直予想外だった。 夕べ、橘さんの瞳はわたしを捉えていた。確かにあったあの瞬間の愛、それだけでいいとわたしは思ったから、受け入れた。恭子だって生理的に嫌じゃなければ誰とでも寝られると思うわ、と断言していた。 その恭子の口から突然、恋愛の二文字が降ってきたのだ。 「今のところ、もう一度会って話をしたいとは思うけど。まだ脳ミソの理解がついていってない感じ、かな。とりあえず今日会うじゃない? それで様子見てみないと判らないのホントに。」 でもね、とわたしは続けた。 「でもね、もし本当に惚れちゃったら困るのはわたしだと思うのね。橘さんにとってわたしとの事は多分一夜限りだと思うし……まあこれは本人に聞いてみないと判らないけど、本気になっても傷つくのがオチだと思う。だって橘さんはまだ前の彼女を想ってるし、こういう始まり方をしちゃうとダメなんだろうなあって。」 彼女と別れたこと、まだ信じられない、諦めきれないって橘さんは言ってたから。 これからも関わり合う人だから。 自分を制御するフレーズは、限りなく浮かぶ。 わたしは怖いのかもしれない。 昨日の事、橘さんの中で『最悪』な出来事になっていたらどうしよう、とも考えた。こういう事に関しては自分の技量は計りようがない。前の彼氏が褒めてくれたからといって何の自信にも繋がらないものだ。 あらゆる不安でわたしの中はいっぱいだった。 黙って暫くわたしの話に耳を傾けていた恭子が、そっか、って呟いた。 「こうやって聞いていると、何だかんだ言って恋してるみたいにみえてちょっと羨ましいけどね。」 「そうかなあ?」 「そうだよ。」 カウンター席にいるわたしたちの前には大きい窓があって、代々木駅前のスクランブル交差点を行き交う人が見渡せる。今日は鮮やかに青くに晴れ渡っていて、窓越しにも暖かい空気が伝わってきていた。横断歩道を渡る沢山の人の、一人一人がそれぞれの秘め事を抱えているのかもしれないとわたしは急に思った。無表情の下に隠している様々な恋。現にわたしだってあんな事があったのに平然とパソコン教室に向かう。中学一年の冬、初めて失恋した日は平然となんてしていられなかった。 「わたしだったら一回Hしたら相手の事大好きになっちゃうけど。」 「わたしもね、橘さんの事は元々嫌いだった、っていうか嫌われていると思っていたんだけどその固定観念は取っ払えたんだ。だからそういう意味では良かったと思うのね。だけど今が引き際だと思う。惚れちゃうかもしれないその前に。今だったら割り切れると思う。このままなるべく橘さんと関わらなければ、そのうち興奮も冷めるだろうしさ。」 人を本当に好きになるのは勇気がいる。 何度も失恋を乗り越えて、引き際を心得る事と言葉のかけひきだけがうまくなった。 かけひきをしすぎて失う恋もあるのに、昔みたいに裸の言葉でぶつかれないわたしがいる。 恋愛と結婚が必ずしも結びつかない事も、恋愛のないところにセックスが成り立つのも判る年頃。 誰かを好きになりたいと思う反面、矛盾してる事も判ってる。 「さて、と。そろそろ行きますか。槙ちゃん時間でしょ?」 恭子は飲み終えたシェイクのカップにハンバーガーの包み紙を押し込んで席を立った。 わたしも立ち上がって時計を見た。 橘さんからの電話は、パソコン教室を終えた五時半から暫く後の六時半、池袋に着いてからだった。 青かった空は夕方になって薄暗い雲を張った。干しっぱなしの洗濯物の事を思い出しながら、電話で指定されたメトロポリタン口へ急いだ。池袋駅はよく利用するけど、JRメトロポリタン口は初めてだった。 「ども。」 橘さんは白地にブルーの薄いラインでペイズリー柄の描かれたシャツをネイビーのTシャツの上に羽織り、パープルのデニムパンツというラフなスタイルにオレンジのサングラスをかけて改札の向こうにいた。 よく似合っていた。 「時間ある? 飯食いに行こうか。」 「あ……、は、はい。」 サングラスの奥に橘さんの瞳が見えて、わたしは急に慌てて頷いた。 一夜は終わった。 終わってしまったのだ。 わたしはあの夜の前と何も変わっていないのかもしれない。構えてしまっているのが自分でも判った。 「あの、これ。」 パソコン教室のテキストを入れたA4サイズのバッグから、すぐに取り出せるように内ポケットに入れてあった橘さんの携帯を取り出した。 「ああ。有り難う。」 わたしを見下ろす橘さんは、多分わたしのお父さんと同じぐらいの背丈だ。お互いの顔の位置関係が、わたしには心地よく思えた。 あるべき場所にある。 「あ。これ、持っててくれる?」 橘さんがわたしに渡したのはアイスカフェ・ラテのペットボトルだった。 あの日も橘さんは鞄の中にペットボトルを入れていた。今日は鞄は持っていないのか、ポケットに入れた携帯と財布の膨らみ以外橘さんの持ち物は見あたらなかった。 男の人は鞄を持たないことがよくある。 いつも肩が凝るぐらいに重みのあるバッグを持ち歩いているわたしには信じられないけれど。 わたしは黙ってペットボトルをバッグの中に入れ、半歩先を歩く橘さんの背中を追うように、メトロポリタンプラザのレストランに入った。 メニューも見ず、橘さんはメニューの一番上にある一番シンプルなセットをウエイターに注文した。わたしは同じものを注文するのが何となく気恥ずかしくてその下にあった和風セットを注文した。 橘さんはデニムのパンツのポケットから、携帯と一緒にわたしが渡した残暑見舞いの葉書を取り出した。 「これ有り難う。みんなに書いたの?」 特別意識して丁寧に書いた宛名を眺めながら橘さんは言った。 その葉書は昨日書いたものだった。 今年の夏は残暑見舞いを出そう、と思い立ったのは七月の初旬だった。暑中見舞でなく残暑見舞いなのは、書く事に時間がかかるであろう事を予め予測しての事だ。 「そうです。まだ全部書き終わってはいないんですけど。」 わたしは、橘さんの前で構えてしまう。 文字でだったら、素直に言葉を紡げる気がして葉書を今日渡す事にした。 「人生何があるか判らないなあと思う今日この頃です、かあ。ホントだね。」 勿論それはあの夜の事。 橘さんは口の端を少し上げて、誤魔化すみたいに笑った。 わたしはちょっと、葉書に書いた事を後悔した。あの夜の事をこだわっている自分が子供じみていて何だか悔しかった。 橘さんとは十も年が離れている。橘さんと等身大で付き合える大人の女だったらさらっと格好良く流してしまえる出来事なのだろうか。 思ったよりそれに囚われてはいないけれど、『特別』な事柄にしたいと思っている自分に気づいた。 口数が少ない今日の橘さんの考えがわたしには全く読めない。冷たく突き放すわけでも、とびきり優しくなったわけでもない。 それから五分ぐらいが経過した頃、沈黙するテーブルの上にハンバーグのプレートが置かれた。 ハンバーグの表面で、まだ油が小刻みに音を立てて跳ねている。 いただきます、と言って橘さんはフォークとナイフを手にした。 「母の言いつけで、ついつい外でも食事の挨拶はしちゃうんですよね。」 「そうなんですか。うちもそうですね。言っちゃいますよ。」 言ってから、慌ててフォークを握ったまま手を合わせた。 橘さんはそんなわたしの行動なんか見ていないみたいに、ハンバーグを口に運び始めた。 橘さんの指は骨張っていて、太い。 瞳は大きく黒目がちで眼差しは強い。 上唇は動かさず、下唇だけを動かして喋る癖を、去年の社員旅行で見ていた事を改めて思い出す。 そして腰。スーツ姿よりも、今日のようなラフなスタイルの方が橘さんの腰の綺麗なラインが浮き立つ。 綺麗だと思う。思ったのはあの日、終わった後だった。『体操座り』で少し照れたように、わたしにシャワーを勧めてくれたあの時。過度でない筋肉の引き締まった腰に、視線が囚われた。 あの日は夢中で、現実味が感じられなくて、だけど今日冷静に見つめると真実が判ってくる。 橘さんは確かにわたしの知っている人だ。 確かにこの人だ。 だけどこの人はどうしてわたしを抱いたのだろうか。 どうしてわたしで良かったのだろうか。 わたしなんかで。 わたしは自分に全く自信がないわけではない。物覚えは悪くないし、手先もそこそこ器用な方だ。運動神経は全然ないけど、それなりに前向きに頑張れる自分が嫌いではない。 だけどことと恋愛のことになれば話は別だ。女としての自分に魅力を感じられないでいる。 付き合った人は何人かいた。 別れるときはいつもわたしからだった。 それでいて自信がないなんて矛盾しているかもしれないけれど、度々卑屈になる。 橘さんは人目を惹く容姿をしている。 今まで特別意識していなかったが、それでもわたしもそれには気づいていた。 そんなこの人が。 「子供が好きだから、気になって仕方がないんですよね。」 ゆっくりと煙を吐き出しながら不意に橘さんが言った。 「え?」 聞き返してから、隣のテーブルで子供が泣いていることに気づいた。 「あ、ごめんなさい。わたし食べるのが遅いから、食べることに集中しちゃっていました。」 「僕も遅かったからその気持ちは判るよ。ゆっくり食べて。」 「有り難うございます。」 橘さんは既に食べ終えて、椅子の背もたれに身体を預けて煙草を口にしていた。 わたしはいつもこの時間が憂鬱だった。 自分が、自分だけが食べているところを見られると妙に緊張してしまう。けれど大抵わたしは同席する人より食べるのが遅い。 橘さんもそれっきり黙って、わたしは余計に気まずさを感じた。 橘さんに退屈させていると思った。だけど会話がない。橘さんとの共通した時間はあの夜しかなく、橘さんのことで知っているのは別れた彼女のことだけしかない。まさか別れてしまった彼女の話題を出すわけにもいかない。 口の中にハンバーグを頬張りながら、手持ちぶさたでプレートの上の茹でたポテトをフォークでつついた。 「どうした? お腹いっぱいなら食べてあげようか? それともジャガイモ嫌い?」 橘さんが少し笑顔を浮かべて言った。 「大丈夫です。わたし好き嫌いあんまりないから。幼い頃から『もったいないオバケ』が憑いているみたいなんですよね。」 それは本当で、お腹がいっぱいなわけではなかった。ジャガバターが嫌いなわけでもない。 「僕の彼女は……別れた彼女なんですけど。いつもこのジャガイモを残してたんですよ。予め食べ始める前に食べられないんだったら貰うよって言うとね、大丈夫よって言うんですけど、結局食べられなくて。で、冷めてから僕が食べてあげてたんです。僕としては冷める前にくれたほうが嬉しいんですけど。」 橘さんは大切そうにその思い出を語った。 わたしはポテトを丸ごと、口にほおりこんだ。 橘さんには予定があって、メトロポリタンプラザの入り口で私達は別れた。 変わらない私達だった。 会社で、所用で話したときの私達。 あっさり別れたその後も橘さんは振り返らなかった。 判ってはいた。 優しさも愛も一夜限りだって、あの日初めから判ってた。 傷ついたわけではない。 だけど改めて悟ると寂しい。 アパートに帰ると一層その寂しさは増した。誰でもいい、多分それは橘さんである必要はないけれど。 「はー、そんなもんかねえ。女心はさっぱり判らんなあ。」 浩介が言った。浩介も、同じ会社の同期だ。出身地も近く入社時研修以来よく連絡を取っている。浩介は異性でありながらそれを感じさせない為、わたしにとっては主に世間話の相手だ。浩介は聞き上手でもあった。 私達は過去のお互いの恋愛事情を大方把握しあっている。勿論今まで何もかも話してきたわけではないけれど、橘さんとの出来事も浩介になら、と思い電話したのだった。 「浩ちゃんには判らないかもね。わたしも何でこうなったのか信じられないし。」 わたしは、浩ちゃんにはの部分を強調するように言った。浩介は女性に対して幻想を抱いている節がある。本人も気付いているがその幻想を捨て去りたくないらしい。 「判らんねえ。もう柚子さんに関しちゃ諦めてますけどね。あー、その男もその男だよな。いや、男である俺がその男に幻滅するのもおかしいし意味が判らないんだけど。あー、うざってえ。こんな俺がうざってえ。」 うざってえ、と言いながら髪を掻きむしる浩介の癖がふとわたしの頭に浮かんだ。今頃表情を激しく崩して、その短くて堅い髪を掻きむしっているに違いない。 浩介を見ていると、昔の自分を少し思い出す。浩介の様に個性の強い人間だったという事ではなくて、男と女についてもっと潔癖だった、少女の頃の自分だ。 プラトニックだった。 そうあるべきだと思っていたし、それ以上を望む気持ちがなかった。 怖かったのだ。 性病が、とか妊娠が、とかではない。セックスそのものがまるでいけない事のように感じられた。また、家庭にはわたしにそう思いこませる雰囲気があった。 だけどその一線を越えてみて思う。 初めて越えた頃はそこまで思うに至らなかったが、わたしは女としてその興奮と虚しさを知って良かったのだ。 男が全てではない、勿論その行為がすべてでもない。その行為がいくつかの責任と危険を伴う事は確かだし、両親が言わんとしていた事が判らない様な年でもない。けれども、わたしという人間を掘り下げる上では必要だったと思う。 遊びでもいいからという思いに応えて貰えず、かなわない恋をいっそう燃え上がらせた事もある。 本質が見えて、恋が終わった事もある。 そして、わたしは女なんだと感じられるのはその瞬間だけだった。 「いやね、今から知り合いの男を泊めるって言ったきりメールを送っても返事がなかったからこれは何かあったなって思ってたんだけど。予想通りの展開を有り難う。」 「浩ちゃんにメールした時点ではわたしは何の予想もしてなかったからね。浩ちゃんこそ、予想通りの反応を有り難う。」 浩介は少し高めの声であっはっはと豪快に笑った。艶めかしい話も浩介とすると、まるで漫才でもしているかのようにテンポ良く笑って話せるから不思議だ。 「それで? 今日会ってみてどうだった?」 「普通よ。拍子抜けするくらい、普通。そもそも会話がないのよ私達。共通の話題もないしどうしようかと思っちゃった。返すの忘れたペットボトルが手元に残った事ぐらいかな、特記事項は。」 「は? ペットボトル?」 「預かったんだ。橘さんが鞄を持ってなかったからじゃないかな。帰り際橘さんが急いでたからすっかり忘れたの。立ち去ってすぐ思い出したけど、携帯が繋がらないし諦めて帰ってきた。橘さんしばらく本社を離れるらしいし、こんなペットボトルの為に会うのもおかしいから捨てようかな。」 橘さんは池袋でセミナーを受けているらしい。係長になるか支社に移動になるか、資格を取得できるか否かにかかっているらしいのだ。何の資格なのかまでは判らない。少し話は聞いたが、専門分野ではないので理解には至らなかった。 わたしとの待ち合わせは食事休憩ので、その後もセミナーに戻るらしく、携帯の電源を切ったようだった。鞄を持っていなかったのも、そこに置いてきたためらしい。 そう、橘さんは本社を離れるのだ。 橘さんに会社で顔を合わせる機会ももうすぐなくなる。数ヶ月で帰ってくるのだけれど、先の全く予定されていないない私達にとってその数ヶ月は大きい、と思う。 橘さんからの着信は浩介との電話がいつものように延々と続いている最中だった。携帯のディスプレイに『橘純』の名前をみつけたわたしは、すぐに浩介と話していた家の電話の受話器を置いて、橘さんからの電話に出た。 『今日はどうも。無事、携帯が開通しました。』 開通? 『止めてたんですよ。槙野さんにいつ会えるか見通しが立ってなかったですから、昨日の朝とりあえず止めちゃったんです。仕事の電話があった時に、呼び出すのに出なくてかけ直しもしないって無礼ですから。』 あ、そうだったんですか。道理で繋がらないと思いました。 『どうもすみません。』 あ、いえ。大丈夫です。あの、今日ごめんなさい、わたしペットボトルを返すの忘れちゃったから、ただそれで電話しただけなんです。お別れしてすぐだったのでまだ近くにいたらと思って。 『あ、そうだ! 許しませんからね。』 えええええっ、でも橘さんも忘れてたじゃないですか。すぐ思い出したんですよ、わたし。 『はは、冗談ですよ。それじゃあ、まあ、そういう事なので。』 ええと、この電話は、携帯が繋がりましたっていう連絡を戴けたって事ですか? 『そうです。』 ペットボトル返せっていう怒りの電話じゃないんですね。 『当たり前ですよ。僕はそんな心の狭い人間じゃないです、プンプン。』 あはは、そうですかあ? 『そうですよ。』 それはわざわざどうもでした。それから、今日は本当にごちそうさまでした。 『ええ、それじゃあまた。』 顔を付き合わせていないからか、滑らかに言葉が繰り出せた。 電話の向こうの橘さんの声は優しかった。優しくて屈託のない笑い声に、わたしは安堵した。わたしが心配していたほど、今日橘さんは居心地が悪くなかったのだろうか。もしかしたらこんなにごちゃごちゃと考えを巡らせているのはわたしだけで、橘さんは何も考えていないのかもしれなかった。 わたしは和風ハンバーグに大根おろしをかけ忘れるほど神経を遣っていたのに。大根おろしをかけなきゃ和風を頼んだ意味がないのに、と、わたしは急に今日の出来事がおかしくなって、思わず一人で笑みを零した。 慌てて置いてしまった受話器を再び持ち上げると、電話に出た浩介は少し拗ねていた。 ええ、ええ。知ってますよ。僕の扱いなんてこんなもんですよね。でもちょっと寂しかったなあ。 3度目の逢瀬は、メトロポリタンで食事をした翌日、八月八日だった。 仕事が定時で終わって池袋駅にいる時に、西武池袋線の改札をくぐる直前に携帯電話が震えた。タチバナアツシの文字に驚き、そして前夜同様すぐに電話に出た。 今どこ? 飯食いに行こうか。 その誘いに、わたしは驚きはしたもののすぐにその日の予定を全て取りやめにする事を決め、二つ返事でOKした。 普段行かない池袋駅北口の路地を歩いて、橘さんの行きつけの定食屋さんにその日は向かった。彼女との思い出の店なんだ、と向かいながら語った。前日のメトロポリタンプラザのレストランも同様に行きつけであるとその時判った。 「だから、敢えて行こうかなと。思い出の場所に。」 橘さんはそう言った。へえ、とか、はあ、とか、わたしはそれ以外に言葉が出なかった。彼女の事は正直どう受け止めていいのか判らないでいた。嫉妬に狂うこともなければ橘さんへ完全な同情を寄せることもない。嬉しくも哀しくもないのだった。 「どうしてそんなに他人行儀なんだよ。」 すみません、有り難うございます、どうもご迷惑をおかけしました……そんな会話を繰り返していたら橘さんに言われた。 だって、と言いかけたところを橘さんが続ける。 「先輩とか後輩とか以前に今は男と女なんだから。」 橘さんは姿勢を崩して座り直し、優しく笑った。 「でも、橘さんへの敬語は取れないです。」 「どうして。」 「橘さんには、……わたしの思い過ごしなんでしょうけど、何となく嫌われている気がしていていたものですから。」 携帯を届けて貰ったから、とか、終電がないから、とか、そういう大義名分がないのに今日は橘さんが誘ってくれた。 この3日間脳裏を掠めたのは、僅かな期待だった。恋愛にはお互い発展していないという確信はあったし、そういう類の『どうにかなりたい』という期待ではない。ただ確かに少し近付いた気がしていた。それでも、嫌われているという思い込みが拭えたわけではなかったのだ。 わたしに、少し愛着を感じてくれているのかな。それとも本当にその場の勢いだけで、誰でもよくって、それで……。 僅かな期待とは前者の方だ。 どうしてそんなに他人行儀なんだよ、その台詞にわたしの期待は少し膨らんだ。 思い切って聞いてみることにしたのはその為だった。 「嫌う理由がないじゃないですか。」 橘さんは一瞬の隙を見せた様にふわっと優しい顔で苦笑した。 「ここ。このお店は行列が出来るんだ。」 定食屋を出て、橘さんは池袋のおすすめのお店を教えてあげるよと言って歩き出した。 橘さんが指したのは小さな回転寿司の店舗だった。 「そうなんですか。……あっ。」 「あ、ごめんね。」 夕方6時すぎ。道はまだそれほど混み合っていなかった。混み合っていないのに、橘さんとわたしは度々腕が触れ合った。橘さんの腕まくりをした腕がわたしの腕を撫でるように掠る。 腕が触れ合ったくらいで橘さんはいちいち、ごめんねと言った。わたしも、触れ合う度にその数を数えた。 まただ。 また、触れた。 それを保っているのはわたしなのか、橘さんなのか、その焦れったい距離は店を出てから変わることがなかった。 焦れったい。 そう、焦れったいと感じた。あの日は身体の隅を這ったその指だ。腕に触れただけで赤面するような関係ではない筈だ。それを取るのに何の躊躇いがあるのか。 その日はメトロポリタンプラザの入り口で別れた。わたしの中の未練に似たもどかしさを悟られたくなくて、わたしはわざと足早にエスカレーターを駆け上がった。上まで登りつめて振り返ると、もう橘さんはそこにはいなかった。 八月九日。 五日前のあの夜から、私達は会わなかった日が一日もない。 だから待っていた。 今日も連絡がくるのをわたしは待っていた。 仕事が終わった後、橘さんがセミナーを受けている学校のそばにあるあのメトロポリタンプラザの辺りを用もないのにうろうろした。 用はないけれど口実はある。 駅の構内、メトロポリタンプラザ入り口でわたしの好きなブランドが夏服のバーゲンを今日から始めたから、それを買いに来た。 橘さんから連絡があったのはいつもわたしが駅にいるのを見越してこの時間だった。橘さんの食事休憩も丁度この時間らしかった。 真っ白のカーディガンと、水色のカットソー。それから、青と白のボーダーのTシャツ。わたしがゆっくりと買う物を選び会計を終えてもその電話はなく、口実を失ったわたしは家へ帰ることにした。 橘さんの電話は予想よりずっと遅かった。 夜、わたしはまだ化粧を落とさずに自分の部屋にいた。 室内着を脱ぎ捨てて買ったばかりのボーダーのTシャツと花の刺繍が入った青いデニムのスカートに着替え、服に合わせて青いデニムのサンダルを履いてわたしは駅へ向かった。 今日、行ってもいいかなあ? 橘さんの電話越しの声が、わたしの体の中をまわるみたいにリフレインしていた。 食事の誘いじゃなかった。 泊まりに来る。 きっと、あの夜の事悪く思ってないんだ。 「もし本当に惚れちゃったら困るのはわたしだと思うのね。橘さんにとってわたしとの事は多分一夜限りだと思うし。……まあこれは本人に聞いてみないと判らないけど、本気になっても傷つくのがオチだと思う。だって橘さんはまだ前の彼女を想ってるし、こういう始まり方をしちゃうとダメなんだろうなあって。」 それはわたしが、自分自身に言い聞かすみたいに恭子に言った台詞。 わたし一人が翻弄されてる。わたし一人で本気になって、そして傷つく。……そんなのは痛いくらいわかってる話で、だけどわたしは橘さんの訪問を断る事は出来なかった。 もう一度アパートへ入れたらどんなことになるかぐらい判っていた。 終電を逃したわけでもない。 友人として招き入れるほど仲がいいわけでもない。 わたしが怖れて、そして望んでもいた展開。 甘美な誘惑が、寂しさが、愛おしさが麻薬のようにわたしを駆り立て、逆らえなかった。 逢いたい。 そして触れたい。 もう一度、この焦れったい距離を埋めたい。 |