プロローグ 〜長い夜の始まり〜






 和姦、という言葉が確かあった。
 ふと浮かんだその熟語を、頭の中でもう一度反芻した。
 目の前で寝息をたてる男をぼんやり見遣りながら、起こさないように遠慮がちな溜息をこぼす。
 わたしは夕べ、この人に抱かれた。


 柔らかい感触を太股に覚えて、柚子は僅かに腰をよじり、金属の手すりに身体を寄せる。
それでも柚子の白いスカートに、小刻みに震える薄汚れたスウェットのズボンが触れている。男は小太りで、顔中に熊のような髭を生やしている。少しずつ肥大する生暖かいズボンの中の突起を次第に強い力でスカートに押しつけて、一見優しそうな目を垂らして柚子に微笑みかけた。
 夏場だからだろうか。
 柚子はこの手の痴漢に毎日の様に遭遇していた。
 柚子の職場は池袋にあって、それなりに名の知れた中企業だ。長く続く不況の中そこそこの仕事量に恵まれ、柚子も幾度となく残業を強いられていた。
 その夜も遅くまで仕事をした帰りだった。
 夜十時から十一時の間の下り電車は帰宅途中の人で混雑している。その混雑の中、埋もれてしまう柚子の百五十センチに満たない身体はすぐに電車の壁面に追いやられてしまう。
 下着の中へ手を入れようとする者もいる。
 腕を組んで、肘や指先で乳房を探ろうとする者もいる。
 腰までスカートを捲り上げられた事もある。
 そんな日は、たった十分余りの乗車時間が、吐き気がする程長く感じられる。
 やめて下さい。
 そう、たった一言が言えればいいのかもしれない。
 駅のポスターには『痴漢は犯罪です』『勇気を出して悪を追放しよう』と軽々しく書かれているが、柚子にはたったそれだけの一言が言えなかった。
 高校生の頃、被害妄想だと大声で叫ばれ、電車中の冷たい視線を一身に浴びた経験からかもしれない。自分が痴漢にあっていることを他人に知られるくらいなら、自力で抵抗した方がマシだ、と思っていた。
 男の丸みを帯びた大きな腹部が、柚子の胸を探るのを、男の腕が柚子の腕を押さえつけるのを、ただ俯いて身体を堅く守りながら耐えた。

「あの」
 駅に着いた。
 電車を飛び出して階段を駆け下り、改札へ向かうのを呼び止める声がした。
「少しお話ししませんか」
 柚子が振り返ると、立っていたのは白い薄汚れたスウェットの髭面の、その痴漢男だった。
  「今から帰るんでしょう。少し、ファミレスにでも入って。」
 ぞっとした。
 ぞっとして、自分の表情が強ばるのが判った。
 この男は罪悪感のかけらも持ち合わせてはいないのだ。
 YESと応えるはずがないと、なぜ判らないのだろうか。
 無言で歩みを早めても、男はうっすらと笑顔を浮かべ、横に並んで追いかけてきた。
 柚子の全身を嫌悪感が覆う。
 もしかしたら、このまま振り切れずアパートまでついて来られるかもしれない。
 もしかしたらその前に、人気のない通りで襲われてしまうかもしれない。
 このまま改札を出てはいけない、と柚子は思った。
 くるっときびすを返す。
 柚子は必死で今駆け下りた階段を上り、ホームへ戻った。丁度下りの準急電車が発車するところだ。
 締まりかけた扉に滑り込んで振り返ると、階段を上り切って息を切らしているあの男の姿が窓越しに確認できた。
 いつもの練馬駅。
 いつもの車両。
 蛍光灯で陰りなく照らされたこの場所に、薄汚い恐怖がこんなに溢れている。
 柚子は何も信じられない思いで吐き気がした。
 もう一度同じ駅に降り立つ気にはなれず、各駅停車で折り返して練馬の一つ先の桜台で降りて桜台から歩いて帰る事にした。
 石神井公園駅で降りるのは初めてだ。
 準急電車の中もやはり混んでいて、柚子は身体を覆うように自分の肩をきつく抱きしめながら扉に張り付いていた。
 上京してまだ数ヶ月。
 一人暮らしはそれなりに楽しかったし、会社でも気の合う友人を見つけていた。
 アパートの隣の住人とも少し交流があった。
 だけどこんな夜、一緒にいる人はいなかった。柚子は石神井公園のホームを、ただ一人で歩いて引き返すしかなかった。
 この時間上り電車のホームには殆ど人影がない。夜空の下にある駅のホームは暗く、生暖かい空気が停滞している。
 太股に残った感触と、呼び止められた息声と、髭だらけの顔の垂れた目だけが頭を過ぎる。静まり返ったホームで他に考える事がない。
 柚子は右肩にかけたトートバッグから携帯電話を取り出し、順番に登録されているメモリを繰った。
 実家に電話しようか。
 会社で同期の、恭子に電話しようか。
 たわいない話でいいから、高校の同級生の一恵に電話してみようか。
 決めかねて躊躇っていたその時、不意に携帯電話が振動しはじめた。
 ディスプレイに見慣れない名前が表示される。
 橘純。
 その二文字は、柚子を驚かせた。
 営業部のタチバナアツシ、三十二歳。柚子のいる経理部と橘のいる営業部は同じフロアにデスクを並べており、顔を合わせる機会は非常に多い。柚子が入社した時も、経理部と営業部は合同で歓迎会をした。
 その時に義理で聞かれた電話番号。
 義理で聞き返した電話番号。
 使う事のないと思っていたメモリ。
 柚子は橘純が苦手だった。……いや、橘純は柚子を嫌っていた。
 嫌われていると柚子は感じていた。

『槙野さん? 橘です。急にすみません。槙野さんの、終電は何時でしょうか。……まだ大丈夫でしたらですね、今晩、泊めてもらえませんか?』
 泊める、って、うちにですか?
『はい。確か槙野さん、池袋からそう遠くなかったですよね?』
 ええ、練馬区です。橘さんは……。
『千葉の外れなんです。少し遅くなりすぎてしまって、持ち合わせがないので……。やっぱり、だめですよね。無理を承知でお願いしてみたんですが……。』
 いまどこですか?
『……遠くです。』
 終電に間に合わなさそうなんですよね。うちの終電は新宿からなら十二時四十四分、池袋からなら十二時四十五分です。それには間に合いそうですか?
『ええと……向かってみないと判らないんですが……。』
 いいですよ。
『え?』
 ですから、いいですよ。もし間に合えば、ですけど。駅まで迎えに行きます。
『ほんとですか? 有り難うございます! また後で連絡します。』

 いいですよ、と自分でも驚くくらい簡単に答えてしまった。困っている橘を放っておけないもの、と柚子は考えた。
 元々千葉にあった会社が池袋へ移転したため会社のそばに住んでいる者は少なく、終電に乗り損ねた会社の同僚を泊める事は珍しくなかったが、橘純を泊める事は電話を切った後も信じられない出来事だった。
 取引先であるソフトウエア会社の事務員と交際しているという噂の橘。
 真面目で、熱くて、一本気で、他に浮いた噂のない人だった。誰にでも気さくに話しかけ、いつも輪の中心にいるその人は、その輪の片隅にいる柚子の事などいつも視界に入れてはいなかった。
「人事の楢崎、あのバカ女が……。」
 橘がいつだったかそんな事をいっていた事がある。口が悪く、嫌いなものは嫌い、好きなものは好きとはっきり口にする橘の本音が、柚子には判らなかった。人事の楢崎真美子とも一見きちんと仕事をしているように見えるからだ。それなのに陰では楢崎の悪口を言っている。それが柚子には怖かった。同期で柚子の友人である恭子の事は「いい子だなあ」「可愛いなあ」とよく褒めるが、その場に柚子がいても柚子の名前を口にするのを聞いた事はない。
 きっと、わたしの事も楢崎さんみたいに嫌っている。
 柚子はいつしか勝手にそう思い込むようになった。
 だから橘は苦手だった。橘と話すときにはどもりがちになってしまう自分が嫌いだった。


 再び電話が鳴ったのは、日付が変わって一時を過ぎた頃だった。

『今駅に着いたんですけど、北口ですか? 南口ですか?』
 南口です。いまから迎えに行きます。
『だめですよ、女の子がこんな時間に外へでちゃ。道を教えて下さい、自分で向かいます。南口を出て、まっすぐでいいんですか?』
 そうです、まっすぐ。しばらくまっすぐで、そのうちスーパーがあると思うんですけど。そこを右折して下さい。
『あ! ありましたよスーパー。』
 その先に自動販売機がありますよね。
『そうですか? まだ見あたらないんですけど。』
 すぐですよ? スーパーを過ぎたらすぐ。
『ええ? 本当ですか? 見あたらないんですが……。間違えたのかなあ、方向。今4丁目にいるんですけど』
 4丁目と言っても広いですから・・・・・・。やっぱり、迎えに行きます。そこで待ってて下さい。
『すみません。』

 電話では道筋がうまく説明できなくて、結局柚子は携帯と鍵を持って駅へ向かった。
 間もなく民家の並ぶ細い路地に橘の姿を見つけた。暗闇の中に白いYシャツが鮮やかに浮きだって見える。
「お、いたいた。悪いね、急に。」
 橘が笑うので、柚子もつられて笑って応えた。
「いいですよ、どうせ暇だったんで。」
「そうですか。」
「うち、ここからすぐなんです。い、行きましょうか。」
「あの、今更ですけど、殿方が一人で泊まってもいいんですか?」
 橘が遠慮がちに言った。
 殿方が、という表現を使うのがとても橘らしい。冗談を言うときとさほど変わらない、さらっとしていて深刻味を帯びない口調だ。
 それでも柚子は急に緊張して、足早に並んでいた橘を追い越した。
「大丈夫です、同じ課の松本さんや田村さんも棚卸の時さんざん泊めてますから。」
 一瞬の間をおいて、橘は小声で柚子の背中に言った。
「松本君と僕は違いますよ。」
 柚子は黙って、アパートの階段を上がった。
 橘には恋人がいる。
 橘の事はよく知っているわけではないが、以前会社のイベントに恋人を連れてきた事があるらしい。橘の彼女を知る者は社内に多く、溺愛ぶりは噂に聞いている。
 ただ、橘の冗談にどうこたえていいか柚子には判らず、黙ったままでいたのだった。第一、今更そんな事を言われて追い返す訳にもいかない。ここまで来てそんな事を言い出す橘はどういうつもりなのだろうか。会社でも冗談を言ってばかりの橘ではあるが、柚子には冗談に聞こえない響きをその台詞は含んでいた。
部屋へ入れてすぐ、橘はYシャツ姿のままフローリングの床につっぷした。
「橘さん、何か飲みますか? 冷たいものは麦茶しかないですけど、温かい飲み物は結構揃ってますよ。」
「いいですよ、ペットボトルの水を持ち歩いてますから。ここはあなたの家なんですから気を遣わないでくつろいでて下さい。」
「そうですか、じゃあ……。」
 柚子も橘の隣に腰をおろした。六帖余りの1Kのアパートでは、そうするより他に居場所がないのだ。
 田舎にいた頃は六帖の部屋なんて凄く狭いものだと思っていたが、実際東京で一人暮らしをはじめてみたら時にその空間は驚くぐらい広く感じられる事もあった。
 今日のような夜だ。
 橘の事が放っておけないと言う口実で、実はこの夜を一人で過ごさなくてよい偶然に柚子は少なからずほっとしていた。
 怖かったのだ。
 知らない人間が怖かった。
 沈黙の中柚子はぼんやりそんな事を考えていた。
「僕、実は彼女と別れたんですよ。」
 つっぷしたまま、橘は唐突に言った。
「別れたんです、フラれちゃったんですよ。」
「え……。トキワオフィスの、事務の、彼女ですよね……? どうして……。」
「他にいい人が出来ちゃったみたいで。いや、まだ自分の中では認めてないんですけど。すぐには、信じられなくて。」
 そう言って橘が笑った。柚子はその時不意に胸の中で、ことん、と小さな音がした気がした。
 この人は傷ついている。
 この人も人間が恋しくて広い部屋へ帰りたくなかったのだろうか。
 橘の告白に、どう反応したらいいのか判らず殆ど口を開かずに次の句を待った。
「毎日会ってたんです。3年の間毎日。だからそれが当たり前で、その毎日に終わりが来るなんて思った事がなかったんです。」
 橘はゆっくり、彼女との別れを語った。
 語りながら、大きな瞳をぐるりと回して柚子を見た。
 大きな子どものようにまっすぐな視線だった。
「彼女とはもう絶対によりは戻らないって判ってるんです。……彼女に会って判ったんです。本当に女の子は怖いよね、全然知らない人に成っちゃったみたいで……。ほんの数日で自分の知らない人に。」
 判る、と柚子は思った。
 高校を卒業してすぐ付き合い始めた男と別れたときの自分を思い出した。
 別れ話を切り出すまでは恋人なのだ。
 別れ話が済んでしまえば急に、すがりついてくるその人を疎ましくさえ思ってしまう。
 もうあなたに話す事はないのよ、この間納得してくれたんじゃなかったの?
 驚くほど平然と言えてしまうものなのだ。
 橘は柚子より十も年上なのに、目の前で傷ついている等身大の橘はむしろ幼く映り、急に本当の橘に触れた様な気がした。恋愛は共通なのだろう。恋愛は、会社での地位だとか、年齢だとか、そんなものでは計れないところにあるのだ。

 明日仕事なんだ、と橘が切り出したのはそれから二時間も経過した午前三時の事だった。
「明日!? 土曜出勤なんですか? もっと早く言ってくださいよ、今すぐお風呂沸かしますから。」
「ごめんね、有り難う。槙野さんは明日は?」
「休みですよ。……あ、着替え。絶対サイズ合わないと思いますけどこれで良かったら使ってください。」

 彼女と行ったディズニー・シーの事。彼女と付き合い始めたきっかけの事。その時の彼女の台詞。
 橘から聞いた一つ一つのエピソードを柚子は2時間の間頷きながら丁寧に聞いた。そうしなければいけないような気がした。橘の思い出をただ聞いて、受け止めなければ。橘の終わってしまった大切な恋に、柚子がかけられる言葉などないからだ。
 覚えのあるつんと痛い思いを重ね、橘の話を反芻しながらバスルームから出ると、先にシャワーを浴びた橘がまだ眠らずに部屋の真ん中で座っていた。
「寝ないんですか?」
「いや、寝るよ。あなたは寝ないんですか?」
「適当に寝ますけど。わたしは明日休みですから……橘さんはもう寝ないと。」
 橘が寝てから自分も眠るつもりで、あやふやな返事をした。自分はベッドの上で、橘はカーペットにベッドパッドを敷いた上で別々に眠る。一人暮らし歴数ヶ月の柚子の部屋にはまだ来客用の布団などはきちんと用意されておらず、どの来訪者にも簡単な寝床しか用意できない。
「あ、あの。この部屋、電気がリモコンで調整できるんです。真っ暗にしちゃうと慣れない家だしトイレとか行く時困ると思うので橘さんの枕元にリモコンを置いておきますね。」
「それはどうも。大丈夫ですよ、たぶん朝まで起きないので。」
 橘は毛布を被って身体を横たえた。
 柚子はしゃがみこんで橘の枕元へリモコンを置いた。橘の視線を左頬に感じて、身が強ばるのが判った。橘の視線を浴びる事に慣れてはいない。
 刹那。
 ふわっと暖かい腕が柚子を背中から包み込んで、柚子の心臓は大きく音を立てて跳ね上がった。
 橘が柚子を不意に抱きしめたのだ。
 橘の腕は太く、思いがけず熱く、そして優しく、柚子は橘に背を向けたまま微動だにしなかった。出来なかった。心臓の音が大きく波打つのが橘にも伝わっている気がした。
「固まってるよ?」
「だって……。」
 橘は囁いて、柚子を引き寄せる腕に少し力を込めた。柚子の視界にはただ目前の白い壁があるだけだった。
「固まってるよ。」
 橘の指先が柚子の鎖骨に重なっている。背中に堅い胸板を感じ、首筋に熱気と共に当たる橘の声が心地よく響いた。
「橘さ……。」
 声にならない。
 驚きが先立って抵抗も力にならない。端から抵抗などしていないのかもしれない。
 柚子は戸惑っていた。
 橘は本社本館にいる若い社員の中でおそらく最も遠い存在であったし、自分は少し嫌われていそうな気すらしていたのだ。
 こんな事態は予期していない。
 これは遊びだ。
 身体を欲しているだけなんだ。
 そんな事がぐるぐると脳裏をかすめた。
 橘が自分を欲する筈がないとも思った。思っているのに、この緊張感が柚子の胸に心地よい刺激を与えているのも確かだった。
 こんな風に優しく抱きしめられるのは久し振りのような気がする。橘は柚子を大切に抱きしめている、そう感じられたのだ。
 橘はやがて、強ばった身体を一層強く引き寄せた。向けていた背中をあっけなく返され、柚子の胸と橘の胸がぴったりと重なる。
 橘の唇が柚子の唇を捉えたのも瞬時の出来事だった。厚く柔らかな唇が柚子の口をそっと覆い、やがて激しく吸った。
 瞼を閉じる余裕すらなく、見開いた瞳で柚子は橘の顔を凝視した。長い睫に太い眉。少しのびた前髪が柚子の額に触れて小刻みに揺れた。
柚子の心臓が一層速く打ったその時、橘の心臓の音も柚子に届いた。橘の鼓動は、柚子のそれよりも速く大きく波打っていた。
 橘の心臓の音。
橘も緊張しているのかもしれないと思った。橘が自分を抱きしめる事に同じ様な胸の高鳴りを覚えているかもしれない。
 柚子は全身の力がふうっと抜けていくのを感じた。
「寂しいの?」
 長い、息が止まるほど長いキスの後に、自由になった唇からやっと零れた言葉はそれだった。
 あっはは、と弾けるように笑って、
「それも半分。だけど可愛いなと思って。」
 橘はもう一度柚子にキスをした。
「……嘘ばっか。」
 柚子も笑い出していた。
 嘘でも何でも、柚子には橘の心臓の音が嬉しかった。その腕に、このひとときだけは確かに橘の愛を感じた。
 今だけでもわたしを欲して、ちゃんと愛を注いで抱いてくれるならそれでいい、そう思えてきた。
 寂しかったのはわたしの方かもしれない。
 胸元のボタンが一つずつ静かに外されていくのを、柚子はそんな思いで見つめた。
 槙野さん、と橘は呼ばなかった。
  柚子の名前を呼ぶ吐息混じりの声が妙に柚子を掻き立てた。身体が火照り、熱が声になって溢れ出すのを抑えられなかった。
 橘の整った顔を初めて認めた。


  和姦、という言葉が確かあった。
 ふと浮かんだその熟語を、頭の中でもう一度反芻した。
 朝が訪れても柚子は眠る事が出来なかった。瞼に焼き付いた橘の顔が、耳に響いている声が離れないのだ。
 目の前で寝息をたてる男をぼんやり見遣りながら、起こさないように遠慮がちな溜息をこぼす。
 わたしは夕べ、この人に抱かれた。
 この人を愛おしいと思った。
 俺、腕枕とか得意だけどどう?
 そういって差し出された腕の付け根に柚子は首を預け、その横顔をずっと見つめていた。
 仕事に間に合うように六時半に起こす。起こした時、この人はまた笑ってくれるだろうか。
 キスをしてくれるだろうか。
 一夜は終わってしまったのだと割り切るにはまだ身体の火照りが冷め切っていない。
 柚子は橘の頬をそっと撫でた。





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