木製のドアがすげえ分厚い気がした。 ドアの向こうにはもう範子がいる。 範子はいつも約束より10分は早くこの店にいた。 だから今日もいることはわかっていた。 通いなれた喫茶店のいつもの席で、いつも飲むアメリカンコーヒーを飲みながら俺を待っている。 ごめん、ってあやまると決まってこういう。 「待ってないよ。私も遅れてきたから。」 あいつは無理して笑う。 分かっているから苛々する。 ドアが開いた。 「隆之。」 呼ばれなくてもあいつのいる場所はわかっていたから、下を向いたまま俺は店内へ入った。 どんな顔して範子を見たらいいのかなんて散々考えたけど、変わらない範子の声に思わず俺は笑って顔を上げた。 「・・・・・・ごめん、遅れて。」 いつもの台詞を言う。 本当は今日は遅れてなんかいなかった。 ずっと喫茶店の前で、ガラス越しにお前を見ていた。 そんな言葉を飲み込んで俺はまたうっすらと笑った。 「平気。」 範子は、今日は嘘をつかなかった。 「隆之君、久しぶりだね。」 マスターの阪田さんがアメリカンコーヒー、俺の分も運んできて、言った。 「そうっすね。半年は来てないっすから。」 マスターはすこし疲れているようだった。 だけど何も変わらなかった。 俺が通っていた頃と、この店は何一つ。 あの頃範子は俺に凄く惚れていた。 範子に惚れているのかはっきりしなかった俺は、すがるような目で俺を見つめる範子が少し白々しかった。 そして。 「範子さあ。最近どうなん?」 俺はスティックシュガーを二本入れて、熱いコーヒーを口へ運んだ。 そんな俺を少しなめる様に眺める範子はいつもブラックだった。 コーヒーはブラックでは飲めない。けれど、スティックシュガーを2本も入れることもまずない。 何か対抗意識みたいな、誤魔化すみたいな、複雑な俺の心境なんか分かった振りしていつも分からない範子は、範子こそ、子供だと思った。 そして。 「とにかく、元気そうでよかったよ。」 気の利いた台詞のひとつも出てこない。 範子と二人きりで逢うのは久しぶりだった。 それでも範子相手に今更気取るのも違和感を覚えた。 そして。 「あのね。覚えてる? 私がやってたパッチワーク。あれ、完成したんだよ。」 「マジで? 結構壮大だったよな。ベッドシーツか何か作ってた・・・。」 「そうなのそうなの。でもサイズ間違えちゃってね。結局、ソファーのカバーにしたの。」 「へえ。でもどっちにしろ、デカイじゃん。」 「うん。懇親の力作。」 何もかもなかったみたいに笑える自分たちはもっと違和感だ。 俺たちは別れた。 傷つけあうしかなくて、終わった。 だけどそうだった。 範子は、俺たちはこうだったんだ。 最初ってヤツがあったはずだった。 こんな当たり前の事ひとつひとつが遠い。 いつから見失っていたのか。 「で?」 俺はこのまま馴れ合ってしまうのが怖くてきりだした。 「何か用があったんだろ。」 今日俺を呼び出したのは範子の方だ。 俺に怯えるように、様子を伺うように遠くで笑っていた範子が。 それには何か意味があるに違いなかった。 俺のことをまだ忘れていないに違いなかった。 今更好きだなんて笑える話。 今更好きだなんて笑うしかない話。 なあ、範子。 「わたし、すきなひとが、出来たの。」 範子は俺を見る。 俺は一瞬の火花を見た。見たが、すぐに範子を見た。 範子は。 何で、俺に、そんな。 言葉にならない何かが俺の血の流れのように体中を流れるのに、範子はすがすがしい顔で俺に言うのだ。 何で。 冷蔵庫の隅で少し凍りかけていた気持ちは、溶けたらもう時差を含んで生ぬるくなっていた。 賞味期限は来る。 来た。 ほんとうのさよならと、あたらしい握手みたいに、範子は俺を卒業したんだと悟った。 好きだったんだ。 心底惚れていたんだ。 俺が。 |