葉書






 冷蔵庫から心地よい冷気が流れ出てきて、夢から覚めた。
 枕元の冷蔵庫。
 それは一昨年の夏、綾にせがまれて買った物だった。
「あ、ごめん。起こした?」
 綾は腰まである髪をかき上げ、すっぴんで振り返った。
「いや、眠り浅かったし」
「飲む?」
「何があるっけ」
「ペプシ、麦茶、牛乳、ポカリ、ユンケル」
「今からユンケルはないだろ」
 笑いながら立ち上がって、俺は冷蔵庫からポカリスウェットの缶を取り出した。
「言ってくれればとったのに」
 綾はミニッツメイドのピンクグレープフルーツジュースを飲み干した。
 時計を見ると、短い針は3の辺りを指していた。
 3時。
 遮光カーテンを下ろしているからまるで夜中の様に感じるが、俺の記憶が数十時間とんでいなければ今は午後3時の筈だ。
 俺がベッドの縁に腰掛けると、綾はいつものように習って隣に座った。
 ゆったりとした時間は嫌いではない。
 綾とは出会って3年が経過していたし、お互いにとって心地いい時間はもう知り尽くしている。綾の息づかいが、安らぎが感じられるから、俺達には沈黙が成立している。
 沈黙の中、湿度の上がった部屋で、綾の息が少し上がっていることに俺は気付く。頬に張り付いた長い髪がその呼吸で震えている。かくいう俺も、胸元に水滴が滲んでいる。
 もう夏がそこまで来ているのかもしれない。
「窓、開けるか」
 俺が立ち上がろうとすると、いい、といって綾は俺の腕を掴みそれを制止した。
「雅弥、肘の怪我どうしたの?」
「肘?」
 綾に言われて肘をみると、うっすらと紅をひいたように傷が出来ている。
「なんかひりひりするとは思ってたけど・・・・・・、いつ気付いた?」
「3時間前」
「会って直ぐ?」
「そ」
 綾は少し微笑んで、俺の腕に指を絡ませた。
 数時間前のことを回想しているように目を細め、やがてその指は俺の汗ばんだ胸元をなぞった。
 綾の体温が少しずつ俺に流れ込む。
 綾は体重を俺に預けた。
 俺はまだだるい体のまま、そうしなければいけないかのように綾の背中を引き寄せた。
 綾の長い髪が俺の鎖骨をくすぐり、俺は腕に力を入れて綾を抱きしめる。境界線を消してしまいたかった。綾を感じる俺の胸がいっそう汗に包まれる。
 綾は俺の唇に吐息を吹きかけた。こんな綾は初めてかもしれない。
 湧く震えに身を任せ、俺も指を綾の背中に食い込ませた。
 俺自身、いつもとちがう高揚を感じていた。
「雅弥、仕事はみつかった?」
「何だよ」
「夏だね、もうすぐ」
 俺の心の中の疑問に答えることなく、綾はそう続けた。
「ん」
 そういえば3時間前、今日は会ったときから綾の言葉は綾の中だけで生まれ、どこか浮遊している感じがした。
「雅弥はねえ、真面目すぎんだよ」
「何、急に」
「でもそこがいいんだよねえ」
「そう?」
 飲みかけのポカリスウェットの缶を倒し、慌てた俺にかまわず綾は続けた。
「そこが、いいんだよ」
 吐息に混じってなだれ込んできた綾は、グレープフルーツの味がして少し酸っぱかった。




 高槻綾、という活字を郵便受けに見たのはそれから1ヶ月後の事だった。
 葉書は年賀状とかでよくある写真屋仕様の分厚いやつで、写真の中では顎までの短い髪に白いドレスを纏った知らない女が白いスーツの知らない男と乾杯なんかをしていた。

 俺の鎖骨に僅かな感触だけを残して、夏が終わろうとしていた。




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