「オオイヌノフグリ」 依子が突然立ち止まって呟いた。 電車から降りて直ぐの改札の手前。視線を落とすと、ひびわれたアスファルトの隙間に確かに青い小さな花が生きている。 「これオオイヌノフグリっていうんだっけ?」 風にふるえる小さな花びらには覚えがあった。田舎の田圃に囲まれたわたしたちの家の回りには別段珍しくも何ともない野花。ただ、田圃道や野道を歩かなくなった今その小さな姿を目にするのは久しい。 やあね、理科で習ったでしょ、と依子が笑った。 理科。 その教科をその様に呼ぶのも、何年かぶりだと思う。 スーツを着て、パンプスで歩き出すずっと前。 「わたしね」 脈絡なく、依子が続ける。 「あの頃、お母さんががいってた事、今少し判る。もう小学生なんて早いわね、きっとあっという間に社会人ね、って。あのときは、そうは思えなかったけど」 「長かったよね」 わたしにもうなずけた。 あの頃とは、時間の流れが明らかに違う。 何故だろうか? 「摘んじゃおうか」 悪戯っぽく依子が言った。 そっとしゃがみこんで、指先を近付ける。 「あ」 ふわり。 音もなくその花の首が、指先からこぼれた。 5ミリくらいの、かぼそい茎が続いて手を離れた。 「この花、中々摘めないんだよね」 そうだった。 そういう花だった。 少し、思い出した。 摘もうとすると、落ちてしまう。自分のものにしようとすると、いのちが消えてしまう。 それは「過去」に似ている。 瞬間をとどめておきたいと願っても手のひらからこぼれていく私たちの「過去」に、「記憶」に似ている。 「あの頃って、やたら長かった癖にもうかなり忘れちゃったよね。忘れる事は仕方がないとしても、幼い頃ほど忘れやすい気がする」 はかないという言葉を背負った花の事を、私たちは話しながら帰った。 あの人に、謝ろうと思った。 |