佐藤さとると私






『届かない、クリスマスキャロル』というコラムで、那須家にはクリスマスを祝う習慣がないと断言した。その理由はコラムを読んでいただきたい。
 クリスマスを祝わないということは、勿論クリスマスプレゼントもない。
 そのため小学生の頃は、ファミコンのソフト、ジェニー(人形)の家や服、あむあむ(編み機)などのおもちゃをクリスマスに親から貰ったと自慢する友人がとてもうらやましかった。
 確か母にクリスマスプレゼントがほしいと弟がねだったこともあるが、うちは仏教ですと一蹴されて終わり、私達はクリスマスプレゼントを諦めた。
 ところが、クリスマスプレゼントを貰ったことがまったくないわけでもない。那須家の玄関に、サンタさんが訪れたことが数回あるのだ。
 両親の依頼を受けてサンタさんが届けてくれたのは、ダンボール3〜4箱分の本(児童書)だった。圧倒される量である。
 幼い頃、私は本が大好きだった。
 それは『パタリロになりたくて』というコラムの中でも少し触れた。
 週に1度図書館へ連れて行ってもらって本を6冊借り(一度に6冊までしか借りられなかった)、その日のうちに全部読んでしまうこともざらだった。
 そんな私の事を考えた、両親からのとても有難いプレゼント。
 だが私達姉弟も子供である。
 おもちゃが欲しいという欲求もとても強かったため、「何だぁ、本かぁ・・・」と思ったりもした。
 おもちゃは図書館では借りられないのだ。
 今思うとこの上なく有難い。あの本達に読解力や想像力を育ててもらった。


 さて、今日私は池袋にある大きな書店に行った。
 シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』を早急に購入する必要があったのだ。
 HOTROADで週に1度行われている『自主稽古』で使う。今、シェイクスピアの戯曲37作品を全部読み、全部稽古でやってみるという試みをしている。
『ヴェニスの商人』は書店に入ってから5分でみつかったが、ふと思い立って私は『児童書』のコーナーに寄った。
 先月、ある方に絵本を戴いたので、何か絵本をお返ししようかと思ったのだ。
 絵本は幼い頃山のように読んだ。大好きな絵本もいくらかあるのに、今日はめぼしい絵本が見つからなかった。
 わたしの足を止めたのは、一冊の長編児童文学だった。
『だれも知らない小さな国』
 コロボックル物語?、とされたこのタイトルには見覚えがあった。
 佐藤さとる、作。村上勉、絵。
 佐藤さとる。
 両親にプレゼントされた本の中で、一番好きだった作者だ。
 佐藤さとる氏は、この『だれも知らない小さな国』で毎日出版文化賞・国際アルゼンセン賞国内賞などを受賞し、『おばあさんのひこうき』で児童福祉文化賞・野間児童文芸賞を受賞している。
 幼い頃は本の著者をそう明確に記憶することはあまりなかったが、佐藤さとる氏と村上勉氏のコンビだけは黄金の2人という位置づけを自分の中にはっきり持っていた。
 母もまたこのコンビの作品が大好きで、つい最近も『おばあさんのひこうき』を受け持っている生徒(今年は小学校1年生の担任らしい)に読み聞かせたらしい。
『おばあさんのひこうき』も、『コロボックル物語』シリーズも、不思議がいっぱいの最高のファンタジー作品だ。『佐藤さとるの世界』には、幼い頃も、今も、惹きこまれてやまない。
 文字通り『惹き込まれる』世界がそこには広がっている。
 わたしが一番好きだったのは、『くちぶえをふいたねこ』というお話だった。
 代表作の中に名を連ねてはいないけれど、まるで猫になったかのような気分になれる本。
 自分の見ていない世界を、まるで見てきたかのような満足感で満たされる本。
 その興奮は幼い頃も、成人を迎えた今も、読むごとに褪せることなく襲ってくる。

『コロボックル物語』の『コロボックル』というのは、『こびと』の事だ。
 小人なんかいるわけがない、と思いきや、小人の世界は私達のすぐ近くに、日常と紙一重の場所に存在しているという。
 トトロの世界では、子供にしかトトロは見えない。
 モチモチの木に火が灯るのを見ることが出来るのも、勇気のある子供だけだ。
 じゃあコロボックルはどうなのか。やはり子供にしか見ることは出来ないのか。
 コロボックルは子供だからといって誰でも見られるわけではない。大人だからといって誰も見られないわけでもない。
 コロボックルの味方になれる人間だけに、彼らは姿を現すのだ。  彼らはそういった人間を探している。その人間というのは、こぼしさま(コロボックル)が生きている事を素直に信じてくれる人で、捕まえて見世物にしたり標本にしようなどとは考えない人。つまり、コロボックルの世界は欲望だけで動く人間には入れないところなのだ。
 読み進めていくと、私なら見落としそうなところにコロボックルはひそんでいる。
 だけど確かに、こちらへのメッセージを、合図を送ってきている。
 コロボックルに逢える人間であるか。
 心を広く開いているか。
 忘れていないか。
 わたしはこの作品を読むたびに自分自身にそれらを問いかける。
 本当にコロボックルが存在するかどうかという話ではない。
 見落としがちな何かはおそらくコロボックルのように私達の身の回りに数多く存在すると考えられるからだ。
 それは目にみえないもの、みえるもの、色々あると思う。
 日常の中で、色んなものに気づかなかったら、色んな世界と関われなかったら、勿体無い。
 それはステイタスだ。
 自分の可能性のカケラだ。
 気づける、拓ける私でありたい。
 そんな事を考えさせてくれる佐藤さとる作品に、久々に出逢えたから、今夜はその世界に浸ろうかと思う。
 本は実家に置いてきたり、母の職場に持ち込まれたりしているのに、こうして不意に忘れた頃に定期的に出逢えるということにも、意味を感じてならない。



...2004.05.02.sun.





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