父がカーナビを購入した。 少しいいものを選んだとかで、17万くらいしたらしい。営業をしているので、仕事柄あったほうが便利なのだという。 いい買い物だと思った。 余談だが、私も方向オンチだ。父もそうだが、地図が読めないほどではないので、普段から『東京都23区』という地図を 携帯して愛用している。宵越しの金は持たないだとか、方向オンチだとか、父と私の共通点はそんなものばかりだ。遺伝というものは全く不思議な性質を持っているものだ。 そんなわけで、そのカーナビの性能を試すべく父と母が車で東京へやってきた。 父と母の上京が急であったため予定を変更できず、私は17時からバイトに行かなければならなかった。合流したのはバイトが終わった21時。それまで二人は池袋のシネマサンシャインで映画を観ていたらしい。 合流後、居酒屋に行こうと言い出したのは父だった。 両親には池袋の事はよくわからないため、お店のセレクトは私に任せられる。 池袋で居酒屋といえばここ、と決めている店がある。 安くて、美味しくて、なにより店員さんの雰囲気がいい。折角の機会だからそこへ一緒に行こうと思ったのだが、その日はあいにく定休日だった為、私たちは『天狗』へ行った。 『天狗』といえば実家のある東海にも支店がある、珍しくもない居酒屋チェーンだ。 しかし、入店の際に私はなにやら違和感を覚えた。 新鮮というか、不自然というか、一種違った空気がそこにはあったのだ。 その正体にはすぐに思い当たった。 別段、そのお店がおかしいわけではない。私が、両親と居酒屋に行くことが違和感なのだ。 両親は、昭和25〜26年の生まれだ。若い頃、居酒屋で飲むことはまずなかった、と二人は語る。 母は真面目な質で、夕食時に家を空けることはまずない。職をもっているため、会議などで帰りが遅くなることはしばしばあるが、友人や職場の同僚と夜外食するのは、せいぜい年間に1回くらいだ。 父は酒に強く、実際よく飲みに行っているようだが、父の年齢になると小料理屋で飲むことが多いらしい。 弟はまだ成人していない(2004年1月に成人式を迎える)。 私は、成人して一年で上京してきてしまった。 初めて3人で居酒屋に入る。 そんな状況からか、普段は出ないような話題がでた。 私は、よく変わり者だと言われる。 最近もバイト先で言われたばかりだ。 「青春時代に、あれっと思った。」 父もそう言っている。父は若い頃、自分や、自分の姉が少し変わっていると気づいたらしい。 「那須の血だ。」 じゃあ何を普通とするのか、はっきりその定義は分からない。第一、自分自身は自分の普段の行い、生活を『普通』だと思っているのだから気づくことはまずない。 だけど人に言われると少し考えさせられる。 幼稚園にも入らないような小さい頃、私は本と歌が大好きだった。 大好きな本は風呂場で暗唱していたし、楽譜つきの歌の絵本から母に歌を歌ってもらって、全部覚えた。 それから、絵を描いたり文章を考えたりすることも好きだった。 小学校に入ってからは特に何でもかんでも自分で作らないと気がすまなく、ファイルやノートを厚紙などで手作りしたり、絵本を作ったり、フリーペーパーを作ったりしていた。小学校6年の時に、自分が会員制のサークルを作る事を覚え、実際に全国の20代30代の人を相手に手紙を書いたり冊子を発行したりし始めた。 そういった話をすると、「すげー」という人もいるが、別段なにも凄くはない。おばあちゃんっ子で、外でやるままごともそんなに好きではなかったインドアな子供だった私からしてみれば、少年野球に打ち込んでいる近所の男の子達こそ「すげー」と思うのだ。 何も特別じゃない。 打ち込む事、好きな事が違うだけなのだ。 そんな経過があって、インドアだった小学校入学当初の私はとても大人しく、自己主張を苦手としていた。 親戚のおばさんに、 「もう! うんとかすんとかいいなさいよ」 といわれて、 「うん」 と答えた、というエピソードも残っている。 自己主張しないため、夕食が鍋料理の時などには手をだせず、いつも食いっぱぐれていた。両親がそんな私の性格を分かっていて私の分を取り分けておいてくれたほどだ。 何に遠慮していたのか分からないが、過剰なほど遠慮する質だった。 ところが、小学校低学年の頃の二つの出逢いが私を大きく変えることになる。 ひとつは、親友Yとの出逢いだ。 田んぼを一枚挟んで隣の家に住んでいるYと初めて逢った時はお互い無口で、睨み合うばかりだったが、気づいたらお互いは最高に馬鹿をやれるパートナーになっていた。 もうひとつはテレビアニメとの出逢いだ。 当時再放送されていた『ぼくパタリロ!』というアニメの、私へ与えた衝撃は大きかった。 『ぼくパタリロ!』は、白泉社『花とゆめCOMICS』より『パタリロ!』の名で刊行されている魔夜峰央さんの漫画をアニメ化したものだ。 主人公、パタリロは幼少にして『マリネラ王国』の国王であり、かけはなれたIQをはじき出した頭脳をもつ天才児であると同時に、『変わり者』なんていう言葉では表現しきれないほどの『変わり者』、むしろ『変態』である。 しかし小学2年生の私は、そんなパタリロにリスペクトに近い感情を抱き、そして彼のようになりたいと思った。 彼は非常にクリエイティブなチャレンジャーなのである。 有名な『ぼくパタリロ!』オープニングテーマにも、こんなフレーズがある。 ♪ 誰も考えつかない事を するのが大好き 当時の私に通ずるものがあった。 パタリロだ。 パタリロしかない。 何故かそう思ってしまったから仕方がない。 自分の襟首を自分で掴んで自分の体を持ち上げる、というとんでもない芸当が出来るパタリロだが、それが出来ない自分が悔しかったりもした。 おかげで小学2年から3年にかけては「アホ・那須洋美」のピークだった。 今思い出すと当時の行動の全てが恥ずかしい。 小学校3年の時の友人は当時、 「クラス変えがあって初めて那須ちゃんを見たとき、頭がイカレてるんだと思った」 と後に語っていた。 当時の同級生がそんな私の痴態のすべてを、今忘れてくれている事を願おう。 しかし、私もずっとアホだけをやっていたわけではなかった。 その後、学級委員だとか生徒会だとかそういった仕事を好んでやり始めたため、徐々に落ち着いていった。 頑固な性格であるため、先生に反抗したこともしばしばあるが、盗んだバイクで走り出すこともなければ校舎の窓ガラスを全て割ってしまうこともなく、合唱祭、文化祭、体育祭に燃える『真面目』な中高生になっていったのだ。 やがて私のなかには、『アウトローコンプレックス』というものが生まれる。 アウトローコンプレックス。 私は羽目をはずしきれない保守的な自分に気づき始めた。 定期テストで学年10位までに入っていたいと目標を掲げたりしていた中学時代があった。それまで迷わなかった自分があったからか、高校に入って少し羽目をはずし成績を落としたら、私はうろたえた。どうしていいか分からなかった。 高校3年間の私は、それまでの人生でもっとも『周りの評価を気にすることなくやりたい事だけを』やった。私は変に目立ち、噂も絶えず(那須さんが岐阜駅でセーラームーンショーをやっていた、という噂には笑った。噂を流したのが誰かは分かっているが、あまりの面白さに怒る気にもなれなかった)、これでもかというくらいゴーイングマイウエイだったが、その実、それまでの人生でもっとも『周りの評価が気になった』3年間だった。 私は私の道をいくんだ、なんて、周りに何と言われてもやりたいようにやりながら、 「違うんだ、本当は、こうありたいわけじゃないんだ」 という主張を飲み込んでいた。だから道を踏み外しきることも出来なかった。 そして、中途半端な自分へのコンプレックスは肥大していった。 内向的で、自己主張出来なかった恥ずかしがりやの幼児期。 パタリロを目指して、バカを追求した幼少期。 羽目を外しきれなかった、中途半端な少女期。 そして、それらをふまえて今がある。 普通に会話していて、変わっているねと言われる。 芝居をすると、堅さがでる。自分で自分をつまんないと思う瞬間だ。 親友Yは、東京でも近所に住んでいる。 私が最近別の友人に 「那須ちゃんは天然だね。」 と言われた時、Yはきっぱりと否定してこういった。 「この子の天然は計算だよ。」 誰より、長いスパンで私を見てきた親友Yがそう言うのである。 パタリロを目指し、狙って変な行動をしてきた幼少時代にそばにいたからだろうか。 それならばいっそ、 「私は変わり者街道をつっぱしってやる!!」 と宣言するのだが、私にはそれは出来ない。 おのれをしらないからだ。 「那須ちゃんは天然だね」 といわれたとき、私が感じるのは「してやったり」という事ではなくて、「え? なんで? なんで? 今何かおかしかった?」という事なのだ。 おのれが変わっていると言われる理由を完全には把握していない。 それでは胸を張って変わり者を名乗れないのである。 私は変わり者です、と言える根拠は人からそういわれるからというだけのものであり、 「なぁんだ、全然普通じゃん」 と誰かに言われたら 「そうかやっぱり自分は普通だ」 と思うしかないからである。 計算していないからこそ、変わり者なのではないかとも思うが、「私変わってます」というには足りない。だってこんなに私は『普通』なのだから。 しかも、堅すぎるつまんない一面を抱えている。 なんて中途半端なのだろう。 パタリロ。 君のいさぎよい生き方は、23になった今も届かない目標のようだ。 |